戦後もしばらくの間は、地方では自宅出産がふつうにおこなわれていた。
かくいう筆者も戦後生まれなのだが、産声をあげたのは実家「クチャ」(裏座)であった。
集落に産婆がおり、彼女の手によってとりあげてもらったのである。
自宅出産がごくあたり前であったころ、出産が近づくと、クチャと呼ばれていた産室に「ジール」(地炉)という約一メートル四方の炉が用意された。
ジールに薪をくべて火を焚くのである。産婦のからだを冷やさないためだとされていた。
冬場ならともかくとして、不思議なことに夏場でも夜間は火を絶やさなかったという。
ただでさえ汗が吹き出し、寝苦しくなる夏の夜に、産婦のからだを温める必要があったのだろうか。
取材先で聞いたオバアたちの話は一様に、「あれはお産以上に難行苦行だったよ」というものであった。
それでは何故に、気温も高く、風の通りも決してよくない産室で、火を焚き続けたのであろうか。
産婦のからだを冷やさないという健康上の理由のほかに、「産室にヒヌカンをお迎えして、母と生まれる子を守護してもらう」という意味が込められていたからである。
ジールで燃えさかる火は、お迎えしたヒヌカンそのものであった。それだから、産室を出るまでの間、火を絶やすことはなかったのである。
さて、生まれた子の産声を聞くとオバアは、まっ先に台所に祀られたヒヌカンに報告した。
ヒヌカンに花米と酒をお供えし、線香をともして子が無事に生まれたことへの感謝と、ヤーニンジュ(家族)として認めてもらうための願いと、見守ってくださるようにという祈りを捧げた。
そして、生まれた子がヒヌカンの加護のもとへ入ることを確認したのである。
自宅出産がほとんど見られなくなった今となっては、ジールもすっかり姿を消してしまったが、オバアたちの「クヮッウマガ」(子孫)の加護を願う祈りは決して消えることはない。
たとえ遠方で聞く孫の誕生の報であっても、その喜びをきちんとヒヌカンに報告し、守護を願って祈るのである。
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