沖縄の石獅子で、十五世紀に製作されたと考えられているもので、首里城の瑞泉門・歓会門の一対の石獅子、玉陵の東西の石彫獅子、末吉宮の一対の石獅子、浦添ようどれの左右一対の石獅子などが知られている。
ただ残念なことに、今日目にすることができるのは、一部修復された玉陵の東西の石彫獅子、末吉宮の石獅子一体、浦添ようどれの左側の石獅子のみである。
また、ほぼ同時代の製作であろうと推定されている獅子像としては、レリーフ(浮き彫り)がある。玉陵の墓室内の石棺の台座の獅子像、円覚寺の放生橋の獅子像、浦添ようどれの石厨子の獅子などがある。
いずれも製作者は謎のままであるが、このような墓陵や寺社に設置された石獅子は、聖なる地を護るための「守護神」だと観念されている。
当然ながら、時の権力者が自らの権威を誇示するための象徴としての意味合いも込められていたであろうことは言をまたない。
墓の袖(そで)に石筆(せきひつ)を立てて、その上に獅子像を設置するのは中国人の墓制に見られる(『沖縄の祭祀と信仰』・平敷令治)という。玉陵の東西の石彫獅子の設置は、まさに中国の墓制に倣(なら)ったものだと言えよう。
また、中国の獅子像は、貴族の墓陵や仏寺を護る「守護神」として設置されているのだという。これらのことを考え合わせると、沖縄の石獅子造立の習俗は、中国から伝えられたものだということが理解できる。
とは言っても、石獅子造立の習俗は、当初王家を中心とした貴族層に受容されたにすぎない。
権力を持たない民衆にとって、権威を示す必要もなかったであろうし、墓を持たない人びとにはそれを守護する必要もなかったからである。
しかしながら、獅子像そのものは、その後に村々で製作されることになる「村獅子」に受け継がれていくことになる。
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