沖縄戦争 その実相
定期連載コラム
●1945年(昭和20)年4月1日に沖縄島に上陸したアメリカ軍は、一月も立たぬ間に北部地域を制圧し、中部地区の北谷・中城・宜野湾一帯に配備していた日本軍をじりじりと追いつめ、南進を続けます。嘉数高地(現宜野湾市)や前田高地(現浦添市)での激戦の後、第32軍・沖縄守備軍司令部をとりまく西・東側の守備陣地のほとんどが陥落するにおよび、ついに司令部は首里城下の司令部壕を放棄して南部の摩文仁付近に撤退をはじめます。
〜相反する二つの伝文から垣間見る沖縄戦の実態〜
●第32軍・沖縄守備軍が首里城下にあった司令部を放棄して、南部へ撤退を開始するころには、日本の海・空軍もほとんどその戦力を失っていました、戦艦大和を主軸とする日本海軍の誇る艦隊は、わずか二時間で海のもくずとなって消え去り、空軍もまた4月上旬から中旬にかけての三次にわたる総攻撃で戦力の大部分を失っていました。
沖縄守備軍の南部への撤退に乗じて、沖縄戦における日本軍の残酷さ、醜さを見せつけます。傷兵よりも弾薬や兵器が当然のように優先され、各地の野戦病院に収容されていた傷病兵を手榴弾や薬品によって処置、つまり殺害することが決定されます。
南風原の陸軍病院では約二千人の患者が青酸カリによって自決させられたといわれていますし、その他の病院でも処置という名のもとに殺害された傷病兵の数は5〜6000人にのぼるといわれています。
戦局も終末的状況を迎えていたなかで開始された沖縄守備軍の南部地域への撤退、そして、その撤退する沖縄守備軍をたよって南部へ移動する一般住民が加わります。南部への避難とはいっても、南部地域の自然壕にはすでに多くの住民が避難しており、この狭い地域に軍民合わせて十数万人が押し込められることになるのです。このような極限状態のなかで日本兵は一般住民を守るどころか、あろうことか着のみ着のままで身をひそめている住民を壕から追い出したり、食料を強奪したり、スパイ容疑で殺害するなど鬼畜さながらのふるまいを演じます。そぼ降る雨の中を泥まみれになって、アメリカ軍の砲弾をかいくぐってやっとの思いで逃げのびてきた一般住民は、飢えを生き地獄の南部戦線をさまようことになるのです。
一方では、沖縄守備軍の撤退作戦と行動をともにせず壊滅した部隊もあります。大田実司令官率いる小禄飛行場の海軍部隊です。那覇の南側にあった小禄飛行場(現自衛隊基地)の北側に水陸両用戦車でつぎつぎと上陸をはじめたアメリカ軍は、空から艦載機の支援をうけながら、日本軍の海軍部隊を前から襲いかかったのです。ほとんどの戦力を失った海軍部隊の大田司令官は、豊見城の司令部壕で自決する直前に、
海軍次官あてに打電したのが「沖縄県民かく闘えり、県民にたいし後世特別の御高配をたまわらんことを」のことばで結んだ一文です。その一文のなかには、陸・海軍が県民のことをかえりみなかったこと、県民は勤労奉仕、物資節約を強いられるなか、滅私奉公の精神に順じたこと、にもかかわらず沖縄は完全な焦土となろうとしていることなど記されています。


豊見城にある司令部壕。大田実司令官はこの壕の中で自決します。
このような軍民が一体となって戦局に臨んだことを伝える資料とは全く逆の状況を伝える資料も残されています。それによると、敵機(アメリカ軍機)が千機も来襲したというのに飛びたった日本軍の飛行機がただの一機で、ほかの人たちはみんな民家の防空壕を占領して逃げ込んだため、県民は入ることはできなかったこと、婦女子が辱めをうけるなど軍紀が乱れていたこと、島民は邪魔だからぜんぶ山岳地に退去せよ、そして勝手めいめいに生活のしかたを考えろ、などの指揮官の長某(新崎盛暉『沖縄の歩んだ道』―細川護貞『情報天皇に達せず』より引用)の暴言などが記されています。指揮官長某とは長勇参謀長のことなのでしょう。
かたや、軍隊が県民を保護することのできなかったふがいなさに心痛する胸中を伝え、かたや天皇の軍隊のもつ本質をむき出しにし、人間性の喪失を感じさせる伝文です。相反する両極面を描き出した文面こそ、沖縄戦のもつ実相にちがいありません。
この記事は、「世替わりにみる沖縄の歴史」“戦世”の中の5.沖縄地上戦のはじまり、より一部を抜粋し、「沖縄戦争 その実相」としてまとめたものです。
→「世替わりにみる沖縄の歴史」注文・詳細ページへ →もくじを見る
→沖縄の米軍基地についてのデータはここで。