今回からユタの「罪」について若干の考察を試みる。
まずは、為政者の視点に立ったユタの「罪」なるものを見ていく。歴史的な背景も書かずして為政者云々ととするのは、片手落ちの感はまぬがれないが、ここでは敢えてそれに深く関わらずに論を進めてみる。
ユタの社会的な影響がどれほどまでに烈しいものであったかについては、首里王府(琉球王国の行政組織)がしばしば布告を発していることからも伺い知ることができる。
向象賢(琉球王国の最高の政治ポストである摂政に就く。1665~73年)は、「仕置(しおき)」(布達・法令集)で「前々女性巫女(ユタ)風俗にて多く候ゆえ、巫女の偽に惑わされざるように」と警告を出している。また、蔡温(近世的な民衆支配の制度を確立したとされる政治家)もまたユタにてこずった。その著書「御教条」は「生霊といって法術を使って人をだましたり死霊といって念力で人をなやましたりするものがいるが、それは効果のないことだから改めるように」と述べている。
時代は大きく降ることになるが、伊波普猷(沖縄学の父)によると、明治の初年になっても、ユタのばっこは目に余るものがあった。ときの聞得大君がユタ道楽をしたために、摂政の与那城王子がユタ征伐をした。検挙されたユタの親玉は首かせをつけられて、首里の市場で3日間さらしものにされたという。もう少し言及すると、これもまた伊波の話として伝えられていることだが、かつての伊平屋列島の一島で、御嶽の木を伐って夜学校の校舎を建築したところが巫女が近いうちにこの校舎に出入りする者の中から1〜2名死ぬものが出ると言い出したので、夜学校は閉校しなければならぬ運命に遭遇したことがあった、という。